平田山構

別名− 付近住所 三木市平田 現在 平田山
2005/5/19 案内板アリ


谷大膳亮衛好

谷大膳の墓
谷大膳亮衛好公、幼名小太郎享禄2年(
1529)宇多源氏佐々木氏の末裔福田六兵衛尉正之の次男として美濃国莚田群伊地良村に生る。幼にして近江国甲賀群長野住豪族伯父谷衛之養はれ谷姓胃す。養父衛之浅井亮政に属し佐和山の合戦に死す。公長野の地を継承せしも、後伊地良村住し斉藤道三、織田信長に仕ふ。天正六年九月豊臣秀吉公に従ひ三木城攻略に参事平田大村の砦を守る。攻防一年有余別所氏密使を毛利氏に送りひそかに糧食の補給を計る。天正七年九月九日夜半、別所毛利の精鋭月明を利して大膳公の砦を急襲、補給の道を開かんとして激戦数刻に及ぶ。大膳公身長八尺無双の大力なり、部下を督励し自ら大長刀をふるって奮戦せしも衆寡敵せず身に五十余創をうけ壮烈なる戦死を遂ぐ。時に享年五十。九月十日黎明なりき。秀吉公その死を悼み、丁重に葬り杉を以て塚木とし給ふ。法号、亮衛院殿月賛玄光大居士、共に戦死せし兄福田正舜(玄々院殿)、弟土田小傅次、甥福田彦八良(勇功院殿)同孫三郎(猷駿院殿)を併せ葬る。一族の位牌すべて大村金剛寺にあり、公の嫡男衛友この戦に仇敵室小兵衛の首級をあげ父の恨を晴らせり。秀吉公、父子の功を嘉彰し丹波山家に六千石を給ふ。徳川氏の治下に入るや加封され一万六千石の大名となり明治にいたるまで歴世城主たり。明治以後華族令により子爵に列せらる。現存する墓碑墓域は、公二百回忌を期して九代孫衛秀の部下福田正親に命じて造営せしむる所、以てその忠節を偲び遺徳を後毘に顕彰せんとの真情に出づ。公死して茲に百九十年公等一族の事蹟を更に闡明にすべく改めて金石に刻して墓域を飾る。英魂子孫の彌栄をみそなはしめ給へ。